昭和43年8月19日 朝の御理解
御理解 第94節
「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
これは、まさしく、取次ぎに携わっておる、教師に対するご理解のようでございますね。これは、あの、これは、いつもいつも、心に掛けておらないと、んー、いわゆる、肉眼で見る世界というか、肉眼で見た、あー、ところで、えー、思うたり、行うたり致しますと失敗をする。そこのところを教えておられます。信者に不同の扱いをすな。物を余計に持ってくる、ね。まあ、お供えでも、どんどん出来るような信者は、大事にする。そういう事ではならんと。信心の篤いのが真の信者じゃと。実はこの信心の篤いということも、実を言うたら分からんのです。人間の見た目では。毎日毎日、ようお参りになる。お供えやらも、ようなさる。だから、信心が篤いとは言えんのです。ですから、実を言うとその、信心が、真の信者じゃと仰る、その、信心の篤い、真の信者であるということも、実は、人間の、おー、目では分からんのです。特に、この御教えの、あー、いつも心に掛けさせていただかなければならない。いつもここに、えー、焦点を心の中に置いておかなければならんと。ややもすると、そういう事になって、御無礼なことになってしまうのですね。
そこで、ここんところの御理解は、確かに、教師に対するところの御理解でございましょうけれども、まあ、教師とても、おー、人間。信者でも、教師し、信者という事においては変わりはない。そこで、このことを、まあ、自分たちの実生活の上に、これを頂いてみる。そこに、なるほど、おかげが、こういうところからもっているんだなと、いうようなことに、気付かせて頂くようなことが大いにあるんですよ。ね。ま、例えば、商売に致しましょうかね。えー、沢山のものを買ってもらうお客さんだけが良いお客と。なかなか銭払いが良いというお客さんだけが上得意だと。あの人は、いつももう、冷やかしばかり。いつももう汚い、買うことが。ね。この人はもう、おー、来ると、しゃっちもう、値切らにゃ出来ん。まあ、こら、私自身、商売させて頂いておって、えー、それが実感できるんです。ね。やはり、銭払いがようて、えー、沢山買うて貰うお客さんは、良いお客さんなのです。ですから、やはり自然、そこにですね、そのお客さんを大事にするんです。そら、大事にすることは良いのです。せなきゃなりません。ね。けれども、こんなお客さん、もうこげなお客さんは来て貰わんでも良いというようなです、例えば、お客さんを、私は、ね。その、上得意さんと思われるようなお得意さんと同じように、な思いで、することは、また別ですね。同じような思いで私は、それに接し、それに取り組ませてもらうということ。そこに、御道の信心はあると私は思うのです。ね。
何事にも信心になれと仰る。そういうことは、そこからですね、いわば、不思議な働きが始まってくる。これはもう、神様のお喜びがですよ、そういう働きになる。その人は、例えば、貧しい買い物しか出来ない。ね。その人は、汚い買い物しか出来ないけれど、ね。そういう例えば、ここに、一視同仁というか、神様の氏子としての頂き方といったようなものがです、出来てきて、ね。今まで粗末にしておった人といったようなものを、それを大切に扱うように、扱わせていただくようになってくる。その事が、神の機感に叶う。この人が、例えば、あー、ね。とてもとても、宣伝費どん使うなら、どげん使うやら分からんと思われるようにですね。さっさとその、宣伝をしてくれる。同じ買うなら、あそこが良かですよと言うてくれる。ね。その人が良いお客さんを連れてきてくれる。というようなおかげになってくるのですよ。わっは、ここでもそうですよ。もう私は、ほんとにそん、それだけ心がけておっても、ややもすると、ね。見かけで、はー、この信者さんは、良か信心が出来るようになるじゃろうと。風袋も良いし、ね。なかなか信心の分かりも良い。なかなか理解力もあって、こげな信者が育つなら、こら立派ぞ。こげな人が、ここの総代にでもなってくれると、ほんと教会も、良いゴヒレイだと言ったようにその、思うような人がある。だから、私は、そういう様なことの、思いをかけるとですね、反対にそれは、私は頂く。ね。私が、こげな思いどんかけよるとは、この人はおかげを落とす。と思うて、まあ、言うならば、そ知らぬ。むしろ触らないほう、ただ、神様へお願いをして行くというだけに、それを、この信者は良か信者。これが育つなら、立派な信者が出来るだろうと言うて、まあ、手を取り、足を取りするごつして大事にする。もう、絶対、逃げますね。ね。神様の心に叶わんからです、それじゃ。むしろ、こちらの、虫の好かんとかね。もう、この人ばかりは、どうして汚いことを言うじゃろかと言ったような人をです。大事にするところの信心すると、その人が、本当に宣伝をしてくれる。その人の導きによって、どんどん、人が助かっていくようなことにもなってくる。ね。これはもう、間違い無しにそうですから、これは、お互いの家庭生活の上においても、やはり、そういうですね、いわゆる、家庭、家の繁盛というようなことになってくる。とにかく、自分の好きなものだけを大事にして、好かんもんなもう、いうなら、ものも言わんと。見向きもせんといったような行き方からはね。決して、良いものは生まれてこない。いや、むしろね、もう、この人は、嫌だと、こげなお客さんなもう、好かんと、思うようなお客さんを、真心から、一つ、信心で大事にしていってごらんなさい。その人が、入れ替わってきて、今度は、上得意さんを連れて来てくれるようになりますよ。ね。それはもう、本当に、あの、間違いないことです。だから、自分でですね。良い信者とかね、良い信者でないとか、良いお得意さんとか、良いお得意さんでないとかという事は、決めちゃならん。どこまでも、神様の、氏子として、または、神様のご都合で、ここにお引き寄せを下さるからだというようなです、思い。これは、教会とか、商売をしておるとかというだけじゃないですよ。ね。それは、あー、お百姓しておられても同じことが言えます。ね。こら一つ、人間関係だけのこっじゃありませんよ。事柄の上にもあるのです。自分の都合の良い事柄だけは大歓迎、自分の都合の悪いことは、もう、それこそ、もう、見向きもしない。事柄の上でも同じことです。
あれは、あー、奈良朝のころですかね、あの、光明皇后という方がおられました。もう、たいへんな、それこそ、もう、生き仏様のように、みんなから、仰がれた方なんです。もう、千人風呂というものを作られましてね。そして、世の中の貧しい人、いわゆる、病人なんかを、そこの風呂に集めて、ね。そしてその、まあ、今で言うなら、病院のようなものを建てて、あの、施療院を作られた。沢山な人が、そこの、まあ、風呂と言うてもなんでしょうがね、薬湯のようなものでしょう。もう、ある時に、もう、それこそ、もう、見る影もないが、もう、手も足も、体中から、血水が流れるといったような、その、ひどい病人が尋ねてきた。ね。あー、こら、こういう人をですね、こういう人を、この入れよったらと、ま、思わんでもなかったでしょうけども、いわゆる、仏心の強いお方ですから、ね。その方の身体を清めてやっては、お風呂へ入れてやり、そして、血膿が出るといったような、自分の口を持って、その、血膿を吸出してやられるというようにその、なさったということなんです。もう、瞬く間に、全快されたそうです。ね。そして、それが、観音様の化身であったというような話が残っております。ね。そこに、光明というような名前を後に、送られるような、あー、おかげを頂かれたんですね。光明皇后とこう申し上げられる。これがね、もう、ほんとにこらもう、私の体験から、を言うても、そういうことが、事実あることを感じますです。ね。そらもう、ここであの、えー、椛目が始まって、四年、もう、はっきり四年半ですかね。もう、ほんとに、棒にも箸にもかからんごたる病人を連れてきては、肝心要のその親が寄り付かんのですからねえ。ね。または、もう、メクラの、お、それこそ、お婆さんですよ、それを連れて来といてから、子供さんたちは、学校の先生どもして、立派な、あれだけれども、もう、それこそもう、寄り付かんです、お婆さん。それでもう、私の家内は、もう、ちょっとあーた、顔洗いに行きなさるでん、手、引っ張って言ってあげないけん。ご飯食べるとでん、銘々で食べさせるようにしなきゃ出来ん。ね。それでも、私は、決してそれを、そげな事は出来んて、あーた、言うた事はございませんでした。ね。しかも、人の嫌がるような病人であっても、もう先生、あげな人だけは、いっちょ断りなさらにゃいかんですよというようなのでも、私は、大事にしてきました。もう、本当に、徹底して大事にさせていただきました。ね。だから、その人たちの向こうにです。現在の、合楽のゴヒレイがあったという事を感じます。ね。この人だけはという事はないです。ね。一番最近の例で言うと、古賀先生ですよ。ね。もう、こちらへ参りましてから、何日めかには、もう、むつ、あの、現在の香月病院の先生が見てありましたが、あー、呼んでくれというから、すぐ、医者を呼びましたらね、先生、早く帰りなさらにゃもう、ここに迷惑がかかりますよと。これはもう、現在の御信者さんですから、やくやく言うて帰られました。でも、もう難しいて言われたんです。それでも私は、大事にしてきました。ところが、その向こうにです、繋がっている(おばげ?)というのは、今でもですね、沢山あるでしょうが。ね。その、向こうにあるもの。例えば、今、熊本とか、伊万里あたりからの、ああしたお参り。竹内先生なんかは、その縁につながってるですから。ね。安藤さんなんかも、やっぱそうですけどね。渡辺先生なんかも、やっぱ、そういう事になるんです。それから、導きなんですかねえ。ですからね、これはもう、嫌でたまらんような、例えば、物であっても、人であってもですよ。ね。それを大事にする向こうに、どれだけの、本当の、例えば、これが真の信心は出来なくても、一つ向こうのほうに、真の信者を沢山用意しておってくださる。いわゆる、真の信者といっても、それは分からんけれどもです。言うなら、上得意さんが用意してあるということなんです。商売でも、楽そうではつまらんですよ。ね。それが神様の機感に叶うからです。ね。私共の目では、信心の篤いのは真の信者じゃと最後には言うておられますけれども、その、真の信者であるということもです、手厚いということもです、実を言うたら、私共じゃ分からんのです。ね。ですから、ほんならこれが、手厚い信心をするから、良い信者。これは、手厚い信心をしないから、真の信者じゃないということはない。参って来よらんでも、ちゃーんと、真の信者としての、おー、ま、値打ちを備えておる人がある。ね。だから、あげんとはつまらんという事はない。この人達が、ほんとにもう、まあ、言うならば、年に何回かしか参ってこんのに、こういう素晴らしいとこを分かっていく人がありますからね。それが、何かの機会で、また、こう繁々と御参りが出来るごつなった時が楽しみというような感じのする人がありますよ。
人に対して、不同の扱いをしてはならぬ。それは、自分ところに都合の良い人を大事にするということも良い、ね。けれども、都合の悪い人を、それとおんなじように、させて貰う心掛けが必要である。そして、どっちかというと、自分の好きな人、自分の都合の良い人は、たいてい、いい加減あしろうとるようであっても、たいてい、いい加減大事にしよる。これは、不思議なこっです。ですからもう、大概、好いたっでん、好かんふりしよるごつして、ちょうど良か。どこもかしいが、ちゃんとでてきとる。ね。ですから、例えば、好かんごたるとを、まあ、場合によっては、好きな振りでもして頂いてですね、大事にせにゃいかん。人だけではない、物事、ね。事柄、全て同じこと。ね。宝くじと、いや、宝くじじゃない、宝探しというのがありましょうが。良か景品のごたっとに限ってもう、人の扱わんごたっ所に、こうやって隠してある。人の目に付かんごたる所に、ちゃんと置いてある。そして、まあ、マッチかたわしぐらいしか、ついとらんごたっとは、もう、どこんでん、こうある。そん、どこんでん、こうあるごたるとを、みんなが大事にしてから、こんなに沢山もっとる。貰うたつは、まっちばっかりだった。ね。さあ、テレビやらラジオやら当たるごたるとは、もう、どこにか、いっちょか、二つしか、そこんにきには隠してないもん。ね。しかし、こげんとんとこにはあるめいというごたっとこに置いてある。同じです。ね。何事にも信心になるように、その、何事にも信心になる、一つの、おー、私共が、これはいつも、ここに思いをおいておかねばならない、反省していかねばならないということの中にです、ね。対人間関係、ね。または、こりゃ、言葉や物事の上においてもです、ね。全てを、大切にして行こう。三代金光様が、ね。いわゆる、現、四代金光様が仰っておられるように、全てのことを、実意丁寧に大事にしていこうという。ここんところを一つ、おかげを蒙って行きたいと、こう思うのです。ね。そこから、ね。信心の篤いのが真の信者じゃと仰るような、真の信者というのは、生まれてくるのだと。良い宝は、そこから頂けるのだと。宝というものは、決してむき出して、そこにあるものじゃないと。ね。こういうもののと思われる、その向こうのほうにあるのだと、分からせていただいて、いよいよ、信者に不同の扱いをすなと仰るように、物事全ての事柄の上に、不同の扱いをしてはならないという事を、このご理解の中から感じ取らせていただくことが出来ますですね。どうぞ。
中村良一
2005年4月24日